『影の書』(もどき?)
『影の書』(もどき?)
るきあのウィッチクラフト日誌(もどき?)です。
魔女的視点で、やってみたこととか考えたこととか。
高度な魔術をやることは、99%以上なさそうですが、時期にあわせた願懸けや考察とかはしてみているので、そんなカンジの記録です。
哲学的…に入ると思われる、考察なんかも。すごく小難しいとこは別ページです。
→『時のはざま』とっぷへ
今日は3月のおわり。年度の終わり。
(ついでに今はほぼ真夜中、1日の終わり。)
でも、終わりは始まり。
明日からは4月がはじまる。
空の月は上向きの新月。月のあらたな一周期がはじまると、ほそいほそい三日月が言っている。
(ついでに今日は、影の書をはじめた始まりの日。)
終わりは始まり。始まりが始まる。
始まりの始まりが始まっている。
終わりの終わりが終わっていく。
上弦の月は満ちていく月。
満ちていく月は「増やす」月。
だから
すこし赤味を帯びたそれが、葉のないこずえにかかっているうち、
わたしはそっと手を掲げて、
アクセス数の増加を願ってしまった。
…なんだかなあ。
20060416追記:
この願い事、満月期にかなったみたいだった(25とか3日連続2桁とかの快挙があった)。
このこと書くのかぽっと忘れてた。たぶんだからだよ直後アクセス数おちたの。
おくればせながら、願いをかなえてくれたお月様にありがとう。そして、ごめんなさい。
うーん、願いをかける前に間抜けを直した方がいいのかも…いや直せたら苦労はないか…。
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誰のものだったか、うかつにもチェックしていなかったのだけれど…
5年ほど前、「肉体を基準に考えること」という言葉をウィッチクラフト関係の本で目にして、ずっと考えていた。
当時は単に、自分の身体に発想を縛られるのはどうだろうとしか思わなかった。
『身体の制約を超えることができるのが精神なのに。その精神の活動(のひとつ)――考えること――の基準は、肉体においてもそれはかまわないかもしれないけど、なんで肉体なんだろう、自分を縛り、制限するものなんだろう。』としか。
しかし、それはある意味仕方のないことと、もっといえば現実なのだと、思うようになった。
理念――精神の活動の成果物――は、幻想のようなものだと思う。
いくらでもかわってく。いくらでも作られる。
どこまでも広がりどこへでもはばたいていく。
生身のわたしをおきざりにして。
わたしがどうなっても、ひとりで。
生命や身体がどうなってるかなんて、理念は配慮しやしない。
(理念はそういう存在。そしてそうあるために、調達され使われるものだから。)
だから理念で考えていてもだめなのだ。
わたしは、わたしのためには、わたしが生きるためには。
わたしの存在、生命の源である、肉体を保持しなければならないのだ。
それを基準に、考えなければ、わたしがいなくなってしまう。
「肉体を基準に考えること」は、そういう意味で、とても正しかった。
そのことに気づいた。
ちょっとこむずかしくかんがえたこと。
↑小難しくて、ちょっと痛いので、別ページ。
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それは、稼動している限り、量の差はあるけど、いつも。
人はいつも、必要な情報や必要なお相手を見つけられるわけじゃない。
だから、とりあえず手に入る本や知ってる人、検索かけてヒットしたサイトや偶然応募してきた人材を頼る。
そこに、たとえば「わたし」が、条件を充分満たした状態で、いれば。
「わたし」でもいいわけなんです。
処理能力も魅力も、世界一ではないけれど。
わかりきったことだけど、もっと上の人はたくさんいる。世界一の人だってどっかにいる。でも、それを探さず「わたし」が採用になるわけなんです。
それは、そういうひとたちを探すのが大変だからです。
手間も、時間も、たぶんお金もそうするにはたりないからです。
ちょっとこまかく。
↑やっぱなんか小難しいので、また別ページ。
だから、ずっと、いつもです。
ひとに能力の限界がある限り。
量の差はあるけど。
…まあ、それが、ホントはモンダイなんだけど…。(←壊。)
しばらく前から、近所の鉢植えがどんどんしおれてきていた。
見かねて、勝手に水をやってしまった。
今日見たら、やや元気そうだった。
枯らすくらいなら鉢植えなんかするな。と憤ったが、自分だって相当しおれるまでほうっておいたという点では同レベルなのだ。
――こういうときがホントにむかつく。
他人の行動で、自分まで同レベルに落ちるとき。
他人の行動で、自分が負の感情をもつはめになるとき。
ひととひとはそんなに深くわかりあえない(むしろ誰もが深く分かり合えたらとっくに滅んでただろう)のに、こういうときだけ、感情が引っ張られる。
もっともよく考えたら、お家の方になにかあったのかも知れないので、怒るのは短絡的なのだろうけど、こんなふうにしてひとは人をも見捨てる。わたしはけっして、それと同じようにはなりたくないのだ。
自分が同じように助けてもらえることなど期待しないが、だからといってそれでもそれと同レベルにはなりたくない。なってそれ以降の人生に後悔のネタをふやしたくない。
なのにわたしは“同レベル”になりかけたのだ。
半分、わたしのせいで。
それがほんとうにむかついた。
文字どおり、吐きけがするほど。
…正確にいえば、むかついていた。
今日の夕方まで。
鉢植えはやや元気そうだった。
そのことでとてもほっとした。
とても救われた気分になった。
腹が煮えるような感触まで、薄情かもしれないが、凪いでいった。
今夜の雨も風向きがよければ、鉢植えに水をやってくれるだろう。
そうでなくても、また元気を無くしたら水をあげに行くつもりだ。
それでたとえケンカになっても構わない。
雨乞いだけして苛立つ、なんてことはもうしない。
自分の手でできることは、自分の手でする。
それはそれで、別の後悔のネタになるのかもしれないのだけれど。
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HOW TO 雨乞い。
↑こらむってほどにならないし、こむずかしーことも言ってるので別ページ。
「モテ」とか「愛され」とか、『レンアイ至上』主義なあおり文句が巷にあふれかえっている。
まあもともと、「嫁に行け」とか「子供を産め」とかのコトバがとびかうのは昔からの日常茶飯事なのだけれど。
人間の業なんだけど。
それは正直、個人にとっちゃヤバいシロモノかもとも思う。
とりあえず血を残すことに固執させとけば、人間はそうは死なない、いくらでも(…は言い過ぎで、“固執させてない場合よりは長く”)利用できる、との計算が根底にあることがあるから。
ひとつの考えに染まると、それを使って利用される。
自分の生命身体と経済性しか切り札のないわたしが、それを切れなくなるような固執を持つことは、控えめに言って危険。
そのためには、ひとつの考え方に染まれない。
ひとはそれを頑迷というけれど、そう言う人にはかならず、わたしより立場とお金がある。
切れる別の切り札がある。
それを忘れ去っている相手とは、ハナシが通じるものではない、かもしれない。
別文と原文。
↑超キツイので別ページ。
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たまにあるシチュエーション。
劣等感からまずは一部の能力を磨くけど、他の部分はまだまだヌケがあって、そんなときに偶然その一部の能力(…の一部)だけ見たヒトが「なんで劣等感を抱くの?」と聞いてくる。
そのヒトにはきっと、劣等感を抱かせるようなヌケがないに違いない…もしくは実はあっても、意識しなくていい状況にあるということで。
それはつまり、結果的に優秀だってことで。
きっとそういう優れたヒトが、明日を作っていくんだな、とも考える。
劣等感の理由なんか、わからないですむ優秀なヒトたちを産んでくれるのかな?
そうしたらきっと、未来に世界は少し幸せになるかな。
だったらきっと、それでいいんだな、と。
更新が間あいた理由。
↑これと関連してるけど、暗すぎるので別ページ。
マジ医者に行った方がいいのかもしれない。
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いやなことをなくす方法として逃げ出すことは超お勧めだと思っている。
同じ車両でクダまいてるよっぱらいに眉をひそめるくらいなら降りてしまえばいいのだ。そうすればヤツと付き合わなくてすむ。
食べるわけでない動物を殺さなくちゃいけないヒトが世の中にはいる。
そのことに苦しんでいるヒトもその中にはおそらく大勢、いる。
でも思う。苦しみ続ける必要はない、とっとと逃げだせと。
誰もやらなきゃそれはなくなるのだ。
毎日どこかで、見捨てられた会社がつぶれてるように。
いやなことから逃げ出さない者がいるからその現実が続いている。罪悪感なんて自分の気休めにすらなってないのに。
逃げられる事態から逃げ出さないのは自分の責任。だから苦しむのは自分の勝手。
罪悪感を言い訳にしてもソレは言い訳。
だからワタシは苦悩するそのひとたちに同情はしないし、生きてる間に懺悔もしない。
懺悔は自分の生命でするものと思うので。
(かれらの“逃げ道”を考えるのは、あくまで事態を早くすすめるためで同情じゃない。
冷たいようだがソレがワタシの現実。
同情が何かにつながるような財産もないし。)
ただワタシはそれまでに、きっちり逃げるべく努力しようと思ってる。逃げでは逃げられないのがわかったから。
構造から、できるなら抜本的に。
まだしばらくはお迎えが来てくれそうにないようすなので。
カゼぎみなのとあいまってアタマがものすごく痛い。
こんな思いをするのはイヤと毎日思う、そのことももうイヤなので。
やはり裏に回した一言。
↑これを表に書いてはいけないと思った。一応人間だから。ていうかサイト閉鎖されちゃうから(爆)。
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※このアイデアにもしも、よいところがあると思われましたら、即あなたのものとしてお使いくださって結構です。
連絡もいりません。
こうしたことは、誰がするかは問題ではないのです。実行されるかどうか、一日でも早く、だけがモンダイなのですから。
ファー製品のチャリティーバザーが定期的に行われるようにすることで、企業側は在庫処分が、運動家としては市場の破壊(言い方悪いけど実際そういうことです)による事態の根本解決がすすめられる、と考えられる。
法整備などで突如、流通がたたれる羽目になると困る。
在庫整理できず、全部が赤字になるから。
よって、それには、反発が予想される。
正直、法というのはチカラもあるけど、抜本的な解決はもたらせないもの、と現状を見るにつけ思われます。
たとえ法で裁かれるとしても、重い罪がかされるとしても、犯罪はなくならない。抑止されているかもしれないけどなくなってはいない。
けしていい意味ではないけど、「必要」がある。だから、罪が犯されている。
だから、ムーブメントをおこして意識を高めて法をつくる…それ(だけ)ではダメなんです。
困ってしまう人たちの、反発だってあるし。
「必要」が、その手段では満たされない、そういう事態を作ること、そちらこそが根本的な解決への道と思われます。
リアルファーがお金にならない、そういう状態を作り出せば…どこかで今もある、ふわふわの動物へのザンコクな扱いは必要がなくなる、ビジネスとして行われなくなるはずです。
不必要なことはムダ。無駄なことはやらない。ビジネスの原則が一転、抑止力になってくれるようになるのです。
そのためには、リアルファーの市場価値を低めなければならない。
すでに多くの人々の呼びかけで「堂々とファーいっぱいの外套で街へくりだすこと」への抵抗はすでに育ってきている、少なくともそう見る方はいる状態に世の中なってきているようです。
しかし現在でも、毛皮のコートは高級品です。
高い値がつけられているのです。
そして高い値がついている以上、その利益が必要とされてしまうのです。
しかし、高い値がつかなくなれば?
安値で本物が出回りまくれば?
金やダイヤの流通は厳重にコントロールされています。暴落を防ぐためです。
裏を返せば、コントロールされなくなればそれらは暴落する。
価格競争が加熱して、価格破壊につながることはすでに現実として目にしています。
これがリアルファーにおいて起これば?
もちろん、前提なくして安売りに走ればただのダンピングです。
ここで「チャリティー」というガイネンが必要になってくるのです。
・チャリティーとしてバザーを行って、実際に売り上げを愛護団体などに寄付する、もしくは自社の社会貢献としての動物愛護の活動に回せば、他社からモンクを言われる筋合いもなくなり、企業としての価値も上げられます。収支を明示する必要がありますが…。
・流れから言って、動物愛護の観点からリアルファーの取り扱いは(どの程度遠いかはわからないけれど)未来において確実に、しない方向に追い込まれていく→万一ご禁制の品になるまで持っていたら没収されてしまうのがオチ。そうなる前に少しでも換金して在庫を整理し、足を洗ってしまうにも役立つ。
・なおかつ、「定期的に」行えば、「ああ月末待てばあそこが安売りしてくれる」という理由でお客は集まる(不定期では、いつでもやってる今度でいいやで集まらなくなる)。
しかも、これはお金(価格競争、先行者利益)が絡むため、一社が始めてある程度成功すれば、自分だけ立ち遅れまいと他社も同調する。
すると事態が一気に加速するわけです。
(加速しすぎてしまうと、実際作業を行っている業者の方にはつらいことになってしまう、と思われますが、そのフォローをきちんとこの資金で行うならば、社会的な敬意を集めることすら可能と思われます)
このバザーのモンダイとして考えられることはふたつあります。
・まず、開催企業が直面する問題。
「動物愛護目的のチャリティーバザーで、リアルファー製品が売れるのか?! 毛皮をはぐのがザンコクだといっているのに、それをあえて買うやつなんかいるのか?!」
いそうですが(爆)、解決の道はあります。
フェイクファー製品をもとなりのブースでチャリティーバザーするのです。
すると・フェイクファー製品がさばける ・その一方でリアルが売れ残ってるって光景が、鮮明なメッセージとなるため、各方面の注目を集める(→で話題になってさらにお客も集まる)
どうしても売れ残ってしまったリアル製品は…
「普通に」とられたものであるなら、それをあかす書類をそえてしかるべき団体に寄付する。そうでないなら先日述べたの「鎮魂祭」にて手厚く供養するのがいいと思います。
・つぎに、実行についての問題。
業界が横並び横にらみ状態だとこれは行われません。
…たぶんこれはモンダイではないと思われます。そんな時代じゃないはずだから。
それどころか、体力勝負をかけてでもライバル社にダメージを与える、そういうことさえ、周回遅れのアメリカナイズから、行われることが予想されるからです。
どこかがはじめれば、すぐのはずです。
他の運動家様のように直接ヒトに訴えかけず、なんとかアイデアが目に留まることで、経済や企業の動きを利用しようと考えている…これがこずるいといってしまえばまあ確かにそうです(爆)。
ただ、説得というものの非力さは誰もが知るところです。
そして、解決というのは、誰がどうやってするかがモンダイではないのです。
どんな手段でもいい、一日でも早く解決してほしい。
破壊活動に訴えるなら一瞬です。
今日も犠牲が出ていることが悔しいし(その力があるなら破壊活動して、そのうえそんな状況を作り出した者全員呪っても飽き足らないくらいのレベルです)、たとえ事態が完全に解決しても、出てしまった犠牲も、それらを救わなかったことも消えはしない。
だけど、ワタシに破壊活動はできない。資金も行動力もない。
なにより保身しなくちゃいけない理由がある。
だから、側面からいろいろ、考えるしか出来ないのです。
保身してるヒトでも出来るような方法を何とか考えるよりほか、できることを思いつかないのです。
…100匹目−何匹か目、のサルにはなったけれど…
正直「ワタシ自身」も、活動するならこんなではだめだと思います。
もっと笑顔で明るく楽しく。憎まず、うらまず、前向きに。
でも今はまだ、街でファー製品を見ると顔が凍ってしまいます。ときどきいろんな言葉も吐きたくなります(てかココロでわめいたりしてます)。
ああ、だから人望なかったのかも(自爆)
▲
☆ちょっと感情的かつ攻撃的ですが、個人攻撃の意図はけしてありません。
おなじ問題意識を持った論客でいらしてくださる方に、そんなことはできません。
でも“そのこと”に、はっきりと気づいていなかったら気づいていただきたくて…
思いを伝えるそのチカラを、活動のためお借りできるようになったらいいと思って、書かせていただきました。
毛皮不買にイマイチ賛同できない理由として挙げられることのいくつかについて…
こうしたモンダイがあるから、というのがおもな理由。
1 毛皮売って生活してるヒトが困る。
2 科学用品アレルギーのヒトが困る。
3 企業が在庫を処分するため安売りに走り、逆に収益を補うために毛皮メーカーが“生産量”を増やす。かえって出回り量が増えてしまう。
勝手反論。
1 については確かにモンダイ。
お金がないのは命にかかわるから。
ただヒトは職を失っても別の職を探しにいける可能性が皆無ではないけど(←別件ですが職を失ったことがあります。そしてワタシの立場は不安定で、老後はないと言えるくらいに金がない。よってワタシには言う資格は確実にあるはずです)毛皮のために飼われてる動物はほっとけば、死から逃れる可能性が皆無。
しかもその死に方だっていいうわさは皆無。
そこをあえて無視したのはなぜ?
このモンダイ、そこまで洞察できる方が、気づいていないわけがない…
2 についてもモンダイ。
やっぱり命にかかわるから。
ワタシもたぶん、しいたけアレルギー。つまりある日しいたけ食べてアナフィラキシーショック起こしたら死んでしまう。アレルギーは命にかかわる。
でも、アレルギー回避のためにと毛皮だけにかこまれて生きているヒトがいるの?
コスト面から見てありえないと思う…
それだけのコストを負担できるヒトが、代替手段を取れない、というのもありえないと思う。(それなら、むしろ木綿ではないの?)
正直、議論にムリがある。
そこをあえて主張したのはなぜ?
科学品アレルギーに着眼できたほどの知識のある方が、気づいていないわけがない…
逃げたいからではないの?
結局亡くなってしまうなら、過程は何でもいいの? そうでないと思ったから問題視したんじゃないの?
ワタシと同じようにモンダイ保留で逃げるの? 過去の私なんかと同レベルでいいの?
でも辛いことから逃げたいのはイキモノとして当たり前だからヒトのことは言えない。
単に今、わたしは逆方向に逃げているだけだから。
イキモノは、辛いことからは逃げたいものだから。
そう、どんなイキモノでも。
3 についてはフォローの手段を講じればいい話では?
ヒトには“価値観”というモノがある。
世のヒトは物そのものよりむしろ、それのために多くのお金を払ってる。
それをうまく使っていくことが必要なら、やるべきでは?
それともそこまではできないと思ってしまっている…?
一人の人間(一応)はちょこっとだけど確実に動員できたのに。
ワタシなんかみたいな、モノ詳しくないイキモノに勝手反論までされるくらい、人目に触れるとこに文章提示できたのに。…
正直ワタシもはっきり言ってムリな様に思えている。
できれば基金と団体をつくりたい、それで世の中に干渉したい、なんて。
カネ人望カリスマ気力全部ないもの。
弱さを言い訳にこっそり誰かの尻馬に乗る程度しかできないもの。
でもそれでもワタシはそこからまでは逃げない。
ココロなんかもう折れてるし人生くじけてるし、活動だって罪悪感からの逃げの手段。
だからこそ、それから逃げる方法がもうないから、だけど。
逃げたいというキモチからももう逃げたくてたまらないけど…。
▲
不買が広まれば、生産者が路頭に迷う。
その責任は取れない。
だから、賛成はできない。
そうおっしゃる方もいる。
しかし…
幾多のはやりモノがすたれていく過程で、生産者のことを考え、すでに飽きた、もう買いたくもない商品を買い続けた消費者がいただろうか?
ブームが去り、関連企業が倒産、社員が失職した責を、つづけて商品を買い続けなかった消費者に負わせよという議論は成立するだろうか?
というのに、この問題においてのみ、責を負わねばならないというのは、奇妙なことではないだろうか?
不買をあおることで産業を、生産者の生活を破壊するのは正しくない。だから反対、という言葉もよくみかける。
しかし、不買をあおることはすでに、ひろく行われ、受け入れられていることではなかろうか?
コマーシャルでは、「この商品を買ってください」と宣伝する。
それは裏を返せば、「他の競合商品を買わないで下さい」というメッセージに他ならない。
他社の製品より、ここがいい。ここが優れている。だからこっちを買ってください。そうこっちです。そっちのソレじゃなく。
これは他社製品に対する、不買の呼びかけではないだろうか?
(どんな種類でも、コマーシャルメッセージを作ったことのある方ならうなずいていただけると思います…)
それがたとえうがちすぎの見方としても…
実際問題として、宣伝行為はやはり、他社製品への不買のよびかけとなってしまうのが実状ではないだろうか。
宣伝されている商品が一定以上の値段で、しかも消費材でないならば――
その社の製品を買った上で、他社製品をすぐにさらに買うことは通常考えにくい。
わたしたちの大半の、サイフの容量に限界があるから、である。
宣伝行為は、多かれ少なかれ、他社製品の排斥を目的としている。
そしてこれを行うさいに、ライバル社やその生産者のことを考えて行っている会社が、どこかにあっただろうか?
むしろ今日のような激しい競争のさなかでは「できれば明日にでもつぶれてくれ」とすら思っているのが企業の、そこで働くひとの実情ではなかろうか?
そんな想いのこもったコマーシャルに、日々わたしたちは接している。
そして、それを受け入れて消費行動を決めている。
わたしたちは不買運動のまっただなかに常にいるのだ。
不買運動に反対するならば、そもそも宣伝行為全般に反対しなければすじが通らない。
そう考えるのは、非論理的だろうか?
(「しかし不買は後ろ向き、だから不健全」というのは、それゆえ当たらない主張と考えられる。
毛皮不買を主張する文章においては、ほとんどフェイクファーへの切り替えが推奨されている。
これはフェイクファーの「前向きな」宣伝にはあたらないだろうか?
リアルのぶんのお金が、リアル不買によりフェイクの生産者に回れば、それだけそちらが繁盛するのである…)
不買運動をしている人間は過度に情緒的・感情的になっている、という議論をよくみかける。
(かれらは冷静でない、論理的でない。だからその主張は聞くに値しないと、それらの文章は暗に主張している…)
しかし不買反対こそ本当は、とても、もっというなら過度に、情緒的・感情的な議論ではないのか?
求められないものが買われなくなり、生産の分布が変わり、その結果に消費者は責任を負わないことは現在ごくあたりまえのことなのだ。
それにもかかわらず、この問題についてのみ生産者の保護を考えるというのは、情緒的すぎる考え方、ではないのか?
不買の呼びかけなど、宣伝行為として毎日のように行われている常套手段だ。
それにもかかわらず、毛皮不買の喧伝はよろしくない、というのは感情的な考え、ではないのか?
このことからは以上で検討した、よくみる不買反対の主張は、冷静で論理的な議論であるとは言いがたい。
(冷静でなく、論理的でないなら、その主張は聞くに値しない、という秘めた主張が、自らをこそ斬ってしまっている状態である…)
ある主張に対し、情緒的と批判しながら、その論自体がより情緒的。
これでは、逆効果ではないかとすら思われてならない。
きつめのつけくわえ。
毛皮が売れなくなって路頭に迷うのは、ほかに稼ぐ代替手段のないひともいる、そんな非人道的なことはだめ、ということも聞かれる。
しかし、買いたくないものを生産者保護のために買う、そんな方はいるだろうか。
例えばグリーン購入も、必要なものを適正な値段で買う運動、なのだ。
けして、必要のないものを善意のみで買う、そういう運動ではない。
毛皮不買運動をしている人間も、結局は買いたくないから毛皮を買わないのである。
もしお金を投下することによる救済を意図しているなら、ただ購入を続けるのではなく、もっと他の対策を考えるべきではないだろうか。
ほそぼそと――彼らが豊かになれるわけでもない程度の消費をつづけ、事実上、代替手段のない人々をその状態に生かさず殺さず縛り付けておくことが、はたして人道だろうか?
さらにいうなら、この問題をそうして保留して、結局次世代に回すことは人道だろうか?
公共の場で口にすることもためらわれる事どもを、わが子が知ってしまう可能性はきわめて高い。
その日をおびえながら、もしくはごまかしながら生きているオトナのもとで、子供ははたしてまっすぐ健全に育つことができるのだろうか?
▲
『サンデモーニング』において、動物救出特集を行っていたが…
コメンテーター方のコメントには正直、悲しみと怒りを感じた。
なぜ全員がたんなる否定論、それもぶっつけ本番の素人のような底の浅いコメントに終始したのだろうか?
(演出としてならソレをするのならひとりでいいはず)
そのレベルのハナシなら、全国の茶の間で死ぬほどされている。わざわざ公共の電波で聞かせていただくまでもない。
素人ならば仕方ない。しかしコメンテーターという肩書きで出演している方が、それでいいのだろうか?
たとえば…
人工物からの動物救出は“人道的”だが、それは“人道的”な立場からのみ必要なことではない。
公共の場に遺体がふえる事態を捨て置いていい、とでも言うのだろうか?
それは人間として感覚がおかしい。
放置された遺体が病疫の源となることはおそらく有史以前から判明していることだ。
あのコメントはそれを考えてのものとは思われない。
現状の日本人ゆえの無知ともいえるが、素人でもない方々がそれではあまりに情けない。
コメンテーターによる底の浅い発言は、場合によっては情けない、どころではすまない。
物事を否定すれば理性的である様に見える。それには残念ながら一理ある。
しかしその否定の底が浅ければ意味がない。
それどころか、議論全体の質を下げてしまうことにつながりかねない。
そうして問題の解決の進行自体をおかしくしかねないのだ。
問題提起のチャンスをみすみす逃してしまうこともある。
救出報道の過熱を問題視するなら…
とりあげられるべきなのにそうされていない事例が多くあることを同時に憂うべきではなかったのか?。
たとえば毛皮問題などにみる、動物への非人道的な扱いについては本当に、取り上げられてはいないように思われる。
多くの消費者が目をふさがれたまま、そのことに間接的に加担させられているのは、それこそ日本の「国としての文化レベル」の問題だ。
というのに、コメンテーターという立場のヒトが、なぜそれをいえなかったのだろうか?
最後のシメのコメント(『取り上げられた動物だけを大事にするのが問題』)が救いだったが、それだけに刺されるカタチになったのは、わたしがもしあの席にいたなら痛恨の極みだったに違いない。
自分の発言は何にもつながらなかった。それどころか自分の格さえ下げるような、底の浅い否定コメントなどはくのではなかった、と。
たとえば毛皮問題などにみる、動物への非人道的な扱いについては本当に、取り上げられてはいないように思われる。
原因は、おそらく素材の扱いにくさにある。
他人事、と自覚しているヒトが多い中、ソフトにやっては注目が引けない。かといって、資料映像はとても、お茶の間に流せるものではない。
議論を盛り上げようとしても、繰り返された底の浅い議論により、すでに問題が陳腐化されている。
例えば前回あげたような、自分の主張で自滅してしまっているような議論がときに感情的にさえ繰り返されては、議論自体からヒトが離れていくだろう。
そんな事態を打破するため、そして繰り返さないためにも…
いまいちど、もっとクリティカルな議論が必要ではないだろうか。
そのためにも正直、こうした人目に触れる場・立場での底の浅い議論はしていただきたくない。
特に識者と称される方々には、その責任があるように思われる。
議論がスポイルされ、事態の解決が遅れれば、犠牲は増えるのだ。
識者たるもの、理性的でなければならない、というのは確かに正しい。
しかし理性的であろうとするあまり、何かを見失ってはいまいか?
理性的であることを示そうとして、形式的に問題に触れ、底の浅い議論を展開することは、控えめに言って自殺行為であり、問題解決にとっては有害ですらあるのだ。
表面的なコトバで自分の立派さを示そうとするのが識者の仕事ではない。
世をよくするため、問題を解決するため、自らの誇る知力で中身のある議論をし、実際的な解決法を導き出し、世の人に広めるのが識者のなすべきことだ。
それができれば、評価も後からついてくる。
すくなくともわたしはこうした公の場(…今はマイナーですけど…)で賞賛する。
人間の知覚力には限界がある。そして、知覚してないものに注意は払えない。
だから、とりあげられた対象だけを大切にしてしまうのは、ある程度致し方ない。
しかし、問題を広く取り上げさせることができるのは、識者による発言ではないだろうか?
わたしなどのような、現在知名度も影響力も何もない、それでも問題意識に苦しむ者は、そうしたチカラを持つ人々を本当に頼りにしているのだ。
早く事態を解決したい。誰によってでもいい、どんな手段でもいい、解決してほしい。
だからもっとチカラを賢明に使ってほしい。助けを待っているものをたすけてほしい。
もしもそれが、チカラあるもののつとめでないとしても。
ただし、以上縷々述べてきたことと矛盾するようだが、素人による発言を排除せよというつもりはわたしにはない。
小さな子供の、たどたどしいはずのメッセージで、世界が動いた例はいくつもある。
ひとりの人間の生の声は、素人だからこそ信憑性をもって発信することができるものだ。
素人でもいい、無力でもいい。だからこそその言葉は真実でありうる。
問題があると思ったら…
何かおかしいと、解決したいと思ったら…
そのことを発信してほしい。伝えてほしい。
ファーのえりまきから目をそらしながら衣料品店の前を通り過ぎるだけでなく…
この飾りの毛皮を生やしていた動物は、はたして少しでも苦しまないようにしてもらえたのか、いや大丈夫のはず、きっと大丈夫、と自分をごまかしてはやりの製品を買い続けるのでなく…
その言葉が少しでも人目に触れるように。大きな力に、せめてつながるきっかけを増やすために。
もっと多くのヒトに、発信してほしい。
そのときできれば、自分のもっているものをよくみつめて、それに即した発言をしてほしい。
例えば、ただのチェリーピッカーであるわたしや、すでに毛皮製品を買ってないはずの団体の方が、衣料品メーカーに対し「リアルファーはやめて(つかったら買わないから。)」と伝えたところでなんにもならないだろう。
しかし、服が好きで、よく買うヒトがもし「リアルファーはイヤ」と思ったら、その立場を明確にした上でそれをちゃんとメーカーに伝えれば、それは要望として受け止められるはずである。
無名であるワタシがここで何かを言い続たところで(コトバの信憑性は納得してもらえたとしても)すぐに議論や動きは起きないだろう。
しかし、識者がそれにふさわしいレベルの論拠で、自らの考えるところを主張すれば、近日中にある程度の規模の議論を起こすこともできるはずである。
無産市民な個人であるワタシが動物愛護ファンドがほしい作って、と訴えたところで、どの金融機関でもやんわりとしかしきっぱりと却下だと思われる(常識的な判断だが…)。
しかし資産に余裕のあるアッパー層の数名がそれをなんとなくでも漏らせば、その週のうちにも企画が動き出すだろう。
無力無力といい続けているが…
それを言い訳にもしているが。
無力であり続けることは、本当に情けない。
いいかげん、わたしももっと影響を及ぼせる力を持つようにしよう、と思っている。
できるかぎりで活動に参加するだけでなく…
金融等の商品を買う、政党や立候補者を支持することも視野に入れて。
ただ、生半可な投資や支持は効果がなさそうなのが問題だが…。
とりあえずまかりまちがって3億円とか当たったら取材で「(自宅購入と…)動物愛護に使う、できたらファンドを立ち上げる」といおうと思う。
誰かが言ってくれたら、そしてやってくれたらココロから尊敬します。そして協力します。
下流レベル(←ホントなんです)なりに、数値目標は考えてますため。
▲
新年。
本来なら、ここでも新しい年を寿ぐべきだと思っていたが、なぜか出来なかった。
どうやら私は、弔意を示したかった、らしい。
今年も私が救わなかった、たくさんの動物たちに。
ヒトに、自分の力量以上の責任を求めることは間違っている。
少なくとも、現実的ではない。
それでも、誰かが――
だれより、私がほとんど何も出来なかったことで、犠牲が出たのは、間違いようのない事実なのだ。
誰かや何かを壊してでも、なんとか神様レベルになって(スピリチュアルな考え方のいくつか見てると、ヒトの使命は神様と同レベルになることみたい。)でも、解決しなかった。
自分のセキニンだと思わざるを得ない。
世の基準では、それを誇大妄想というようだが、それは精神的な経済性からして正しいし、かつ私にとってはどうでもいい。
つまり、そういいたいひとは勝手に言っていればいい、ということ。
それを言ったところで、誰も何も救われないのだから。
(逆にそのレベルのコトバでは、誰も何も損なうことなどできはしないのだから)
一時的にそういうこと言ってるだけ(明日になればまちがいなく、全く関連もないほかの事をしゃべっているだろう)の人と、言葉を交わすのも正直馬鹿らしいから。
前に進もうとするだけです。今はまだ。
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これは正確には、位置づけとしてブログの文章の続きに当たる。
本来裏に回すきつさかもだが、ブログから跳んできてあのすごくきついぺーじをさまよってしまったらと思うと…なのでやわらげてみて転載。
警察官は医者じゃない。医療知識やソレに基づいた適切な対応を求めるのはそもそも間違いではある、それはわかるが。
対人スキルとリスク管理ってのは果たして専門外なのか??
警察署においてもそれはそうなのか?
曲がりなりにも団体、公的機関であるというのに、まるで素人の個人レベルの対応ではなかったか?
まあ、ある一定の方にだろうけどクレームおおいというし、とにかくクレーマー扱いでハナシを切ろうとするというのもつまり、いつもの保身の一環だったのだろうけど…。
対応のまずい保険屋さんも加害者さんもそう、ぶっちゃけただ保身したかったんだよね。
(ていうか加害者さんはただの素人の個人だろうけどさ実際…)
なんとか自分の身をまもらなきゃ。
にしても何で自分がこんな後始末しなきゃいけないんだ、と思ってたんだよね。
けれど…
世の人間はアナタ方に対してそう思ってるよ。
なんでわたしたちがアナタ方の後始末しなきゃいけないの、て。
なんであんたたちのせいでマトモにやってる私たちまで辛い目にあうの。巻き添え食って非難ときには嫌がらせされなきゃいけないの、て。
あんたたちがしたことの言い訳をわたしたちが求められるの。後始末をさせられなくちゃならないの、て。
いっそ許されるなら、まずはあんたたちを始末したいくらいだよ、て…
アナタが毎日すれ違う、マトモにやってる警官さんや保険屋さんやドライバーさんも、全員思ってるよ。
なんていったらますます怖くなっちゃうかな…。
ますます保身に走っちゃうかな。
まあ保身は分かるよ。私なんかも保身のために見捨ててるもの死ぬほどあるし。
おかげで死んでる生命もめちゃくちゃあるし。
でも、ワタシなんかと同レベルでほんとにいいのかな?
下流の――政府さえもがこの世からいなくなってほしいと思って処置してるような、人間と。
こんなふうにずっとずっと「愛しいヒトには言うことできない」慙愧に不定期につきまとわれながらそれでも死ねずにいる、そんな人生でいいのかな?
ワタシと違って、抜け出すカギはもうその手にあるというのに。
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つらくなる。
それだけは、確実に起こる。
何かを望んでも、道のりは常に遠い。
生きるのは、時々楽しく、そしてとても疲れること。
正直言うとつぶれそう。
望む姿とのギャップは大きくて。
でもそれだけでは自分はつぶれないし、たとえ精神を病んでもそれだけでは死なないこと、ワタシは自分の体験で知っている。
(実際の行動で身体を殺さないとワタシは死なない。)
だから、常に自分のココロの声のままに進むだけ。
辛くても進まずにいられなければ進む。進みたくてもそれが辛ければ立ち止まる。それだけ。
正直我ながらマジかったるいけど(←おい)
セロトニンがたりなすぎなのでしょう。
人生とは、自分の浅慮軽率愚行と非力に引っ張りまわされて半泣きで歩いていく道のりなのかもと思ってるあたりすでにダメすぎなのかもです。
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本日、あたらしめの古新聞にて目撃した記事より。
なんでもその金融機関、現金紛失事件を無実のパート社員に押し付けて闇に葬ろうとしたらしい。
「君が犯人なら丸く収まる」と言って。
しかも警察に被害届出したのでその人は四ヶ月以上拘留された。
「君が犯人なら丸く収まる」レベルの認識のクセに。
被害者(としかいいようない)のその方はその間に病気になり入院し、ストレスで歯が割れ、いまもウツで治療中、だそうな。
金融機関側は非を認めたので和解が成立したのだがその間五年。
ヒトを傷つけ、人生を狂わせた。
その保障は、結果が和解なのでしていないだろう。
そしてその金融機関は今も黙って営業してるのだろう。
こうした経緯でつぶれた信金があるというニュースはきいてないから。
一般市民的にはそこがモンダイ。
だってその金融機関で、顧客のお金や情報に間違いがあっても…
その顧客がパート社員だったら。もしくはパート社員がほとんどの企業だったりしたら。同じようにもみ消すだろうということは充分推測できるから。
「パートと社員ではお金に関する考え方が違うから」などと言いはなって。
そんなとこには、とてもお金は預けられない。
でもいまの世の中、正社員じゃないヒトのほうが多い。
パート社員が正社員より多い会社は有名どころにもあったような。
つまり、こんな情報知れ渡ったらあっつーまに取り付け騒ぎ起きるよ…
なおかつ、現在正社員でないワタシとしちゃ〜その前にその金融機関の実名を早いトコ調べなきゃならない事態。
でも、どー調べろってんだろ。信用金庫ってことしかわかんないよ。ウツだ…
それってと無実の信金様にまで迷惑がかかるんだろうな。まじウツだ。
しかし、ちょっと冷静になってみると。
取り付け騒ぎは起きないかもしれないともいえる。
なぜか?
こうした経緯でつぶれた信金があるというニュースはきいてないから。
このご時勢なのに。
それとも私が知らないだけなのだろうか?
とりあえず調べなければ話にならない。
そしてもし存続していたら、ワタシはこのことを知っているすべてのヒトに伝える。
一刻も早く資産を移動させるようにと。
なぜか。ワタシの知っているヒトに、揉み消しや取り付け騒ぎに巻き込まれて欲しくないから。
取り付け騒ぎは、当時起きなかったかもしれない。
しかし、こうしたことはナニで蒸し返されるかは分からない。
こうした認識の上司が内部告発を誘発する行動を起こさないわけがないからだ。
すなわち、その信金が存在する限り危険は去らないからだ。
裁判記録をしらみつぶしにするしかないのだろうか…?
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この日ブラックホスピタルを見てあらためて思った。
精神にせよ肉体にせよ、病というものは、自分で思っているよりずっと身近なものだと。
考えてみれば…
人間のすることに完全など(あんまり)ない。
それと同じで、人間の「ありかた」にも完全など、(あんまり)ないのだろう。
そもそも病と「正常」は、明確な障壁で隔てられているものではなく、検査値コンマ1でどちらにも傾きうる、非常に互いに「近い」間柄の事象なのだ。
だから…
知らないうちにワタシは病を得ているかもしれない。
しかし、知らないうちに治ってもいるのかもしれない。
たとえばなんか、ヤバそうな症状があったとき。
ワタシの状態が、コンマ1で「病気」のがわか、「正常」の側か…
そしてそれは、医療処置を必要とするのか、否か。
それは結局、医療の知識のないわたしにはわからないのだ。
医師でないと、正確なところは分からないのだ。
ヤバいと思ったら病院に行く。そうした選択肢を忘れないようにしようととりあえず思わされはした。
しかしモンダイはここでおわらない。
医師の診断が正しいかどうかもホントいうとわかんないらしい。
医学はヒトの学問だ。
創造の神が天の座から正しき則の書を賜ったわけではない。
日夜手探りで、時に犠牲も後戻りも生み出しながらひとつずつ発展させようとしている、あくまでヒトの子の手になるものなのだ。
つまり、不完全なところがある。
もらった診察は間違っているかもしれない。
最悪、自分は全く新しい病気のひとりめの患者かもしれないのだ。
セカンド・オピニオンを得るのは忘れないようにする、としても…
それでも、少ない確率かもしれないが、何かあったとき自分は助からないかもしれない。
そんな思いはいつも、消えない。
精神にせよ肉体にせよ、死や絶望というものは、自分で思っているよりずっと身近なものだ。
それからは逃れられない、いつかは捕まる。
理不尽と思われる死に方をするかもしれない。
そんな思いはいつも、消えない。
しかしこのことに不思議にあせりや悲しみはない。
いつもあわてたり怒ったり、ばかりだから使い果たしたのだろうか。
わたしの隣にいつもあるはずの死に想いをはせるとき、ワタシのココロは静かだ。
せめて本当に死を迎えるときにも、今と同じように、ただ静かなココロでありたい。
チカラ及ばず理不尽な死に方をするかもしれない、自分を含むすべての生物に、せめてココロを安らがせる術をもたらすことができるなら。
それはなんという福音だろう。
死や苦しみへの恐怖や嫌悪が医学医術を発展させた、そしてその技術で助かっているヒトが世界中にたくさんいる。それは自明の理だ。
しかし逃れられぬ恐怖や苦しみの中で死んでいくヒトや動物たちを放置することは、誰しも望むことではない。
生物である以上はいつかは必ず死を迎える。
そのときにせめて静かなココロでいたい、すくなくとも自分のたいせつな存在にはそうあってほしい。
そう思うのもまた、ヒトとしての自然な想いだ。
すべての生きるものに、せめてココロの安らぎを。
どうしたらもたらすことができるのだろうか?
2007.04.03 ウラミのチカラ。
↑ウラミだけにウラへ(爆)。ていうか偉そうバクハツすぎなので。
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社会問題。
動物たちのモンダイや、労働者問題。
荒っぽく言えば、こういう点では、諸外国のほうが進んでいるように思われる。
その過程で、多くの血が流れたその結果、なんだけど。
日本は立ち遅れているけれど、それはつまり、同じ愚行や悲劇を繰り返すことなく、学習の結果をとりいれることができる、ということ…なのに。
まさか、同じ痛みまで再現しなければ学習もできないのか?
だとしたら暗澹たる想いにとらわれる。
自らでエベレストに上らなくても、エベレストの高さを知ることが出来る動物、それが人間なのに。集団になったらそれ以下になってしまうのか? 集団のチカラを生かせるのが人間じゃなかったのか??
人間というものを、ひょっとしたらワタシは、買いかぶっていたのかもしれない。
さんざっぱら偉そーなこといいながら。
人間不信とか何とかいいながら。
なんとなく、ココロから力がぜんぶなくなってしまったような気さえしたりする。
生きていればどうせすぐ復活するのだけれど…。
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友人の恩人のご子息がタダ働きさせられたりしてるらしい。ので管轄の労働基準監督署の連絡先を教えときました。
家族にクレームつけられてアタマにきたのか「その方たちをリストラする」と会社はのたまってるそーなので、改善命令でたくらいでは出荷に影響ないかもと思いますが…
このこと自体、内部のヒトからもご家族に伝わった話ということですので…
関東の飲食店関係の皆様にはもしかして影響あるかもしれません(埼玉のおしぼり工場ということなので)ごめんなさい。
しかし…
本人が知的障害者だからってそのひとには家族もいるし家族には友人もいるしさらにその友人がこういうことを知っているということはあるのです。ぶっちゃけ姿勢甘すぎです。
で、不正な手段で造られたものを知らんと使わされた、片棒担がされたのと同じだ、この落とし前は付けてやる、とキレる人間だっているのです。ぶっちゃけ現在とても後悔させてさしあげたいです(←怖)。
この手は汚れていないわけじゃない。いくつもの生命やその可能性を奪っても、一日も満足に生きられない。そしてその状況を解決できてない。
けど、それでいいとはけして思っていない。
だというのに、さらにその現状を悪くしてくれた相手には、ものすごい怒りを感じます。
最悪の方法をいろいろかんがえたりもします。
労働問題しかり、毛皮問題しかり。
直接的なことはしなくても。今特に何もしなくても。
機会を見つけたらぜったい逃したくない。
不健全ですけど、真情です。
まあ、被害にあわれた方の原状回復と、はかりにかけたなら(かけるのも失礼なくらいに)はるかに軽いものですが…
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28にもらった朗報。
現場のことが社長の耳に入り、話し合いで解決の方向に進んだとのコト。
遅いきらいもあるが、解決法としてはベストと思われる。
自浄作用が働くにこしたことはないのだ。
そしてなにより被害回復がきちんとなされることが一番。
健全な前進がなされているこの状況、最後まで見守ります。
(まあワタシは、文かいただけ。他に何を出来たわけでもないが…)
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※今日は特に口調がきつい。
ぶっちゃけ、充分なヒマと金があったらそんな連中潰したい、暮らしていけないというならトドメさしてさしあげたい、そう心の中でつぶやいているため。
人攫いや詐欺師風情が企業や公共団体、職業人と称されるというのも、そもそも言語レベルで間違っていると思われるが、とりあえず体裁ということで。
本日ブログで読んだこと。
最近新聞にもかかれるようになってきたらしい。
(↑ウチ新聞とってないからわからんのです)
中国ではバス停などで子供がさらわれて強制労働させられているという。
地元の警察までぐるになってしまうので解決が非常に遅れるという。
…まあつまり、理由はカネなのだが。
組織には組織の都合(てか金策。)がある。それがたとえ公共のものであったとしても。
だから、個人のカンカクでの正義を実現するならば、個人こそが「チカラ」をもたねばならない。
正義では“職業人”は動かない。
シゴトの目的はぶっちゃけカネなのだから。
(人攫いや詐欺師風情が“職業人”を名乗るというのもそもそもおこがましい話ではあるが)
だから、“職業人”である“企業”や“公共団体”に正義や理想を期待する自体、土台ムチャなハナシなのである。
個人こそが、チカラをもたねばならない。
そうしなければ不正を防げない。
不正は正しているだけではダメなのだ。防がなければならないのだから。
それこそ理想論だが…。
個人が力を持つことは国家にとっても利益となるはずである。
不正が蔓延すれば、回りまわって国が滅びるのだから。
そしてそれがうっかり自分の治世におきないという保証はどこにもないのだ。
国家もゆくゆくは国家として、法人でも既存の団体でもない、個人がチカラをもてる体制を確立するようにすべきであろう。
このチカラというのはもちろん、国の団体が有しているのと同様の“権力”――暴力装置を背景とした他者への干渉体系である。
正直いって、ぶっつぶされるキケンのない相手の話など、誰も聞きはしないのだから…
モノゴトを穏便に収めるためにも、いざというときのためにも、物理的、経済的な“暴力”を行使できる機構は必要なのである。
(かつてサヴォナローラが潰された理由は彼がこうしたチカラを持っていなかったから。その他枚挙に暇はないだろう)
義憤や理想、言論だけでは限界があるのだといつも感じる。
きれいごとを言っている、もしくはそれしかできないでいる間に、被害者は苦しんでいるのだ。
もっとも、権力をあがなうだけのカネも、それを得る力も、手を汚すことも出来ない今のワタシではとどかない域であるのだが。
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今日お友達様のブログで知りました。
毛皮養殖工場の実態が新聞に載ったそうです。
(ウチは今、お金なくて新聞とってないからわかんなかった)
その詳細をここであらためては、申しません。
いわれているとおりのものであったとだけ、お伝えいたします。
最近、中国製品が叩かれている記事が多かったので、ひょっとしてそのつながりで登場するか…と思っておりましたところ。
EUではすでに輸入禁止だそうです。
さて、この状況で毛皮を買える日本人が今後いるかどうかは興味深いところでもあります。
日本人は(自称?)情緒的な反応が強いようですため。
逆にかっこつけて無理に買って叩かれる著名人様が出現しないとよいのですが。
どうやら先日みかけた、季節はずれのファーセールは、本当に次シーズンがないことをみこしての売り抜けセールだったようです。
(夏のヨーロッパ旅行にはとっても着ていけないのだし。)
この事態にワタシはほとんど全く何も役に立ってはいないので、本来その資格はないのですが、とても正当化のしようがない亡くなり方をさせられた動物たちにお詫びとご報告を差し上げることはできそうです。
わたしたちはようやっと、ここまで来ることができたようです。
同じ生物種として本当に本当に、申し訳ありませんでした。
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昨日放映の討論番組にて…
非正規雇用が拡大している、問題か問題でないか?
というテーマでしたが。
ある正社員の方からの投稿にこうありました。
(意訳。)
『パイの大きさが変わらない中で、能力のあるものが浮かび上がる、そうなると誰かが割を食うのはやむなし。』と。
その方は「正社員」でなくなったとき「過去の自分をぶん殴りたくなる」んだろうなあ…と勝手に思いました。
ふつうに役員・経営者としてはやっていけない考えだし、非正規雇用になった場合高い確率でご自分が割を食ってしまわれているのだろうから。
ぜひ、よい方に転んで、過去のご自分を殴ってさしあげてほしいです。
「わかりきったこと」と言われそうなことを発信なさる方は、とても精神的に張り詰めている…
もっと言えば何かを思いつめて、なおかつそのキモチにフタをしていらっしゃることが多いようです。
その方は、正社員でありながら割を食ってしまわれているのではないか。
それとも、その方の大切な人が非正規雇用で…
と思ってしまいました。
そうだとしましたら、そのことを、発信するほど思いつめておいでのその方は、この先どうなさるのでしょうか。
もし、正社員という、ある程度発言権と使える財力が大きいだろう方の多くが、そこまでつよく思っていらっしゃるのであれば、事態が大きく動くのはもうすぐそこではないか、そう思われます。
(広い意味での)不正は見過ごせば、ゆくゆくは自分に降りかかり首を絞めるもの。
たとえ自分がそれによって現在利益を得ていても、それゆえに恐怖や嫌悪の対象であることは変わらないのですから。
問題を解決するにはチカラのある方と、恐怖で動けない方が、動けるように道筋をつけるのがよい方法ではないかと考えています。
ただ、声高に叫ぶだけでなく…
ただ、感情をうつすだけでなく。
(感情はすでに、事実があおっているのですから。)
道筋のひとつとして…
もし許されるなら、ご自分のポケットマネーででも誰かを雇うことが出来ればいいと、考えていらっしゃる正社員の方は少なくないと思われます。
そのため、プロジェクト参加の正社員と会社で費用を按分してヒトを雇い、ワークシェアリングにつなげるというモデルはありではないかと考えられるのです。
昔ある正社員の方がこうもらしておいででした。
「忙しすぎる。カネで解決できるならしたい」と。
その方は実際あまりの忙しさに(※)、明け方4時までお仕事をなさっていたことがあります。
マンパワーを増やしてほしいと上司に申し出ましたところ、自分のマンパワーを最大限活用し10時から10時まで働けとのお言葉をちょうだいしておりました。
※ 契約と計画のまずさです。
「社員への」ルールはほぼきちんと守り、曲がりなりにもお世話してくださった会社になんですが、それがIT系業界のおしごと価格を不当に破壊したことは間違いありません。
その後まもなく回りまわって自社が市場からは退場することになったことについては、複雑な表情でご愁傷様と申し上げるほかワタシには考え付きません。
多くの方法で延命を図っていたのに、全くはかないハナシです。
この例で見られるように、もし許されるなら、ご自分のポケットマネーででも誰かを雇うことが出来ればいいと、考えて(というより思いつめて)おいでの正社員の方は全国に少なくないと思われます。
プロジェクト参加の正社員と会社で費用を按分してヒトを雇い、ワークシェアリングにつなげるというモデルはありではないかと考えられます。
多くの企業様は新卒とコネのある方と世界レベルの方以外を長く正社員で雇う気は、もっといえばその期間の日給以上を支払うつもりは現在基本的にないようですから実現に問題はそうないでしょう。
もっともその場合、社内にノウハウが蓄積しないという問題はありますが、そこまで切迫しておいでの会社はきわめて多くの場合、蓄積される以前になくなってしまうのでこれも実際として問題にはなりません。
個人としては、先のない相手先様に数十ヶ月間抱え込んでいただいても、個人としての有用なキャリアにはなりません。臨時プロジェクトメンバーとして招かれたという形になるほうがまだましですので。
なおこの方法は雇用の安定性を提供はしませんが、それもこの方法の欠陥ではありません。
雇用というもの自体が現在、そもそも不安定なのです。
かつてワタシと同じフロアに勤務しておりました全員は、正社員という立場でありながら、本当に一ヶ月前予告でクビを斬られました。
大口の契約がなくなり、会社が真っ赤になってしまったからです。
そしてその事態を見越した行動が、なされなかったか実を結ばなかったからです。
当時新米社会人にすぎなかったワタシから、親会社の社長までを含めた、全員によって。
いろいろと考えてゆくと、根本的なところに思いが行かざるを得ません。
そもそも問題は、雇用に正規非正規をもうけたところにあると思われます。
その間を探る葛藤のもとを、存在させてしまったのがそもそもの原因です。
法ですべて正規にすればいいのです。
非正規雇用者の待遇を引き上げることになり会社がつぶれるというなら、企業は正規雇用者と非正規雇用者をあつめてハナシをし、政府は一時助成金を出せばいいことです。
それは企業と政治の当然するべきことの範疇です。
出来うる限り先送りをして、なしくずしにしながらも、結局やることになるのでしょう。
そのとき意図的に、多くの救いもれと犠牲者を出すのでしょう。
今から、それを見越しておかなければならない。
それをできるものが、対策をとっておかねばならない。
政治の単位も法人も、すべては自分の都合と力量で動く、もっというならその範囲内でしか動けないのです。
実もふたもない言い方をすれば、スーパーマン的な活躍を期待できるほどのとてもすごいもの、ではないのです。
個人が求める“正しさ”を実際に実現するためには、個人がチカラを持ち、動くより他にないのです。
現在カネのないワタシには重いタスクですが、長い先送りがぶちっと終わったときにはひょっとしてとんでもない大富豪になっていたりするかもしれません。
たいていのことは結局赤字に終わる、そんなエネルギー法則のありかたを克服する方法を見つけているかもしれません。
そのときは迷わずやろうと思っております。
個人が求める“正しさ”を実際に実現するためには、個人がチカラを持ち、動くより他にないのですから。
かなうならできる限り、誰も潰さず敵に回さず、むしろ助けられるように。
先は長いです。
しかし幸いなことに閉ざされてはいません。
ただしもどることはできない道です。そのため自分のなかに、逃げたい気持ちも正直ありますが。
まずは、忘れずにいようと思います。まずはそこからです。
▲
詳細は整理がついていないので書けないが…
ワタシの失敗で非常にヒトを傷つけてしまった。
そのことは、法にこそ触れてはいないが、もはやどうにもならない性質のもので…
一生、気持ちの解けないこともありうる。
とても辛いものである。
もしもワタシが同じ思いを誰かにさせていたとしたらどうだろう。
嫌なことである。かなりリアルに。
それを思ったときワタシは、恨んでいた過去の人々のいくたりかをもう許そうと思った。
彼らはすでにこの世にない。ワタシがどう思っているかなど知ることもおそらくないだろうとは思う。
だが万一知ることがあったなら?
彼らはすでにこの世にない、自らの行いをすでにどうすることも出来ない。
そのことで一生恨まれるとしたら。とてもやっていられない。
そもそも、直接の被害者はすでに彼らと同じところに行っている。自分の気持ちでいくらでもどうにでもできるのだ、呪おうが、猫パンチかまそーが、ゆるそーが。
ワタシがどーこー思う筋合いのことでも、そもそもはないのだ。
まだ許せない者もいないわけではない。そいつはすでに、七代祟られ決定なのだけど。
だが、彼らについてはもう恨まない。
回りまわって、彼らより大切な身近なヒトにも累が及ぶことでもあるので。
もっともそのヒトたちがワタシを許してくれるかどうか、そのことはわからない。
だが、それとこれとは関係ないのだ。
最近の本では、自分のココロの中の怒り・恨みを解放し、許すことによって自らの状況もまた好転しうる、とされているが…
その効果など、なくてもいいのだ。
悲しみや辛さや痛みを、こんなものを自分のもとで作り出すのはイヤだと思った。
毎日いくつもの命やココロや可能性を犠牲にしているくせに、それでもイヤなのだ。
だから…
わたしは彼らを許した。
これからは、そうできる相手は一発ぶん殴って、それができない相手は思い切り呪って、そして、許そう。
そのように思った。
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ワタシはいくつもの会社に落ちた。
学歴ハンパで、暗いし、ガキっぽい容姿だし、ていうか性別分かりづらい(爆)というのも大いにあるだろう。
しかしそれも含めて、つまりは適応できる能力がなかったということなのだ。
派遣会社の営業も講師お呼びコーディネーターも手作りでパンフ作るのも不動産の内勤も月40時間残業して電気製品のなんかするのも…今考えたら持続不可能、てか持続に至ることが不可能。
もしもぐりこんでもすぐ次を探す羽目になってただろう。
今だから言える。落としといてくれて、ありがとう。
てか、受けにいったワタシがそもそもおばかでしたね。手間かけてごめんなさい。
皆様の前途が、できるなら安らかで、なによりシアワセなものでありますように。
今だから言える。
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金色の杯のような月がしずみ、あたらしい年がきた。
晴れて風が静かだ。
先日までと打って変わって。
風の「潮目」がかわるときなのだろう。
だから、たぶん、年の境目、とされたのだろう。
今年、もう少し、もう一歩だけ、幸せな年になりますように。
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昨夜のテレビで。
不景気なときにはにゃんこモノが人気となるという。
ちょうど現在のように。
そしてそのあとには回復が続くという。
これはまさしく…
お猫さま萌えが経済を賦活するとはいえまいか。
いや、言いたい(←おい。)
かく言うワタシも「ねこ鍋」の本(相方のプレゼントにだけど)買ったしなあ。
もう一冊のほうも買う気でいるし。
お猫さま萌えがワタシを賦活する。
すごく。
お猫さま萌えが世界を賦活する。
きっと。
▲