月の裏側     

月の裏側。

こむずかしいとこや、すこし痛いとこ。
うーん、裏ページ…?

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2006.04.06 肉体を基準に考えること・の裏側。


ちょっとこむずかしくかんがえたこと。

理念――精神の活動の成果物――は、幻想のようなものだと思う。

たとえば、『正義』は多くの場合、大義名分だし…
夢や希望やロイヤリティは、いろんな組織や団体で、いまも代用貨幣の役割を果たしてる。
それら、理念のどれも…
お腹が一杯にならない、内輪にしか通じない、いつかは壊れる、それの価値を維持できなくなった供給者は詐欺師として扱われる。

…幻想、としての属性持ってる。
幻想――移ろい行くもの、限界のあるもの、“現実”よりすこしだけもろいもの、適用範囲の狭い“真実”。

理念は、たしかに身体の限界を超越できる。
でも、もろい。

理念は、たしかに身体の限界を超越できる。
でも、だからこそ、“問題”もある。

理念は、わたしの身体の限界を超越してしまう。
わたしの身体の行方を、維持を、命運を黙殺してしまう、してしまうことができる。

正義のために、死にたい人が、実際どのくらいいるのだろう?
実際のところは、死ななくちゃいけないから、死から逃れられないから、せめてその運命を照らすきれいな星として、作られて配られた『正義』を掲げ、自らを慰めてる、それがホントのとこなんじゃないだろうか。
『正義』、それじゃなければ『愛』。
それとか『夢』。
わたしは昔、夢のため、といって、ついていけない現実をごまかそうとした。
それでも『夢』はわたしを癒すことはなく、ただ一人で歩いていった。
わたしの中に、お金で作られたロイヤリティは、その後結局何の役にも立たなかった。
企業活動の維持という理念が、わたしをその会社の成員でなくしたから。
会社への一番の貢献が、なにも貢献しないこと…自分視点で考えると笑うしかないネタ。
理念は、わたしの身体の限界を超越してしまう。
わたしの身体の行方を、維持を、命運を黙殺してしまう、してしまうことができる。
理念は、わたしのためのものではない、わたしを生きさせるものではない。
それはわたしたちを、超越していくものだから。



2006.04.16 個人の存在意義が出てくる場面。 の裏側。


もっとも就職活動中には、面接時かなりのことをおっしゃって結局物別れになり、その後すくなくともこのわたしが就職決まるまで、結局募集記事が出たままの中堅企業様もありましたが…
面接官様を拝見した限りですがおそらく、あまり向いていない状態の方を使ってでもカタチだけでも募集活動をしなければならないご事情があったのでしょう。その苦境がなくなっていることをお祈り致します。
わたしの限界のため、今はまだ、はっきりいって皮肉交じりですが。


(2006.04.16の更新からの直リンク、記事はここから。)
『結果を誘導するための、ローカルなノードとして(有効に)稼動すること』、それが個体のできる、究極のこと、なのだと考えてます。

計算結果や知識等「あるものごと」を導き出すための媒体は世に多くあります。
ツールやサイト、本などのメディア、そして個人やその活動。
でも誰もそれらの、最適のものをいつでも利用できるわけじゃない。
(どっかにひそかに埋もれてたらもう不可能。
世界で一番のものも絶対あるけど、確実に見つけ出すのは手間とお金と時間かかりすぎて非現実的。)
現実の対応としては、知ってるサイトや行き付けの図書館の本、身近な物知りやチームのメンバー…をとりあえず頼ることになるわけです。
有限で、代替も大体可能な存在である個人や情報媒体が、個として必要とされる(されうる)、つまり個として存在意義を有することができうるのは、つきつめればそういうシチュエーションです。
よって『結果を誘導するための、ローカルなノードとして(有効に)稼動すること』、それが個体のできる、究極のこと、なのだと考えられるのです。

ぶっちゃけますと、能力にはか〜なり限界があるし、あなたなしじゃ〜生きられないのっともあんまり思われてなさげな(←いや思われたらかえって困るかも…責任重過ぎ…)「わたし」が、それでもここに「わたし」としてまだとっかえられずに生きてるのは、逆説的に言えば「わたし」のまわりの人やシステムにも限界があるからなんです。いくらでも、都合のいい“かわり”を一瞬・タダで調達はできないからなんです。

そしてこの状況は、科学や社会システムや人間自体ががものすごーく進歩・進化でもしない限り変わらないと思うんです。
たとえばある情報ののってるサイトの検索結果が出ても、最終的にサイトを一件一件見るのは人間で、でもって人間の反応速度の上限は、最高でも体内で起こる化学反応の速度の上限とイコールになる→どーやってもモノゴト、一定以上早くはならない、安くもならない と思うので。
(すくなくとも、相対性理論が有効である限りは、光速以上にはなんないと思う…)


2006.04.23 人の家の鉢植え。・の裏側。(HOW TO 雨乞い。)


10代のころみつけて、今も使ってる軽い天候制御の方法。
家探しの際、日当たりを見たいときとかには便利です。

天をうつす反射体の表面よりちょっと上に、杖・指等で円を描く(触れなくていい。媒体、作業領域として意識に印付けするための行為として行っている)。
そこへ見えているのと全く同じ状態の、心像(イメージ)を重ねる。
心像のなかの、反射体に写る空を曇らせたり、晴れさせていく。反射体がはっきりとした鏡像を結ばないものなら、光量を制御することでそれを行う。

やりやすいのは水溜まりを使って、晴れかけている空をもっと晴れさせるというものです(るきあが人生で最初にやったのはこれ。クルマのフロントガラスも使いやすい)。
太陽が写りそうな水溜まりの上に円を描き…
円の中に写る雲を、イメージの中でうすくちらしていきます。
太陽の丸い光をどんどん強くしていきます。
すると実際晴れてきます。


さら〜にこむずかしいこと。
※まあ、天候なんて変わるものだし、そもそも雨降って後は晴れるだけなんつー状態なら、ただただ待ってたって晴れてくるのでしょうが…
『そのとき、そのコンディション』の世界はひとつしかないので、こうしたことの厳密な対照実験はできません。そして対照実験ができない以上、こうしたことに効果があると断言することはできませんが、同時にないとも断言できないのです。

ただし、似たようなコンディションにおける成功事例はいくつかあります。それにもとづくなら、効果はあるといえます。
同時に『理屈と膏薬』ではありませんが、この“成功事例”を棄却する方法はいくらでもあります。それにもとづけば効果はないと、もっと推し進めれば、逆の効果があるとさえ、いうことができるのです。

そのへんの“真偽”を(つねに暫定的に、ですが…)決めるのはチカラ関係なので、わたしは主張しないし争いません。
“そこ”にあるのはいつでも、“互いの事実”だけ。
なので、それにもとづいて、“自らの気に入る一時のコンセンサスを作り上げるため必死でチカラをふるう”行為に意味はない、とわたしには思われるのです。



2006.05.07 血を残すこと(『レンアイ至上』主義)・の裏側


原文
血を残すことに意味を見出せなければ人生のほとんどのことに意味がなくなるらしい。
成長は、よりよき明日の自己のため。
よりよき明日の自己の生活環境のため。
生活環境を整えるのは、血を残すのに重要だ。
しかし血を残すことに意味を見出せないとなると、そこにいたるまでのすべてが意味を失う。
血、の意味するところは、なにも肉体の遺伝子、にとどまらない。
たとえば思想。
思想の血脈を継いでいくためにも、それを保持する人体の保護が、必要になる。
しかし思想の血脈を継ぐことに意味を見出せなければ、後継者の育成も護持も、意味を成さなくなる。

人にとって「血を残すこと」は重要である。
と、されている。
毎日直接間接に、そのメッセージが送られる。
しかし、ほんとうに人にとってそれはそんなに大事だろうか?
そもそも、人と社会があり続けることに、そんなに大変な意味や意義が、あるのだろうか?
わたしにはよくわかっていない。

「今実際、存在しているものに意味があるか問うのはそれこそ意味がない。実際にある目の前のことに集中しろ」というのは、思考停止によって問題を解決している(正確には、したツモリになっている)だけのことであり、思考停止によって問題を解決している(正確には、したツモリになっている)だけというのは、けして賢明なことではないと思われる。
孫子の兵法について描かれた書籍によれば、優れた指揮官はそのように兵を扱うという。どこへ向かうか、何をしているかすら知らせず兵を導き、死地に立たせる。兵は目の前の死地から逃れることにのみ集中して能力を発揮し、その結果として戦いに勝利する、と。
これとくだんの論法によって個人がほうり込まれる状況は酷似していないだろうか?
目の前の状況にだけ集中し、能力を発揮して、勝利をもたらす。
しかし、『古来征戦幾人か帰る』である。
『一将功成って万骨枯る』である。
これを受け入れ動く者は、これを言ったモノに、使い捨て前提にかつ盲目的に操られてはいないだろうか?
これを言ったモノ、というのは、直接の発言者のことではない。
発言者をあおっている、価値観、もとくは価値観を発信する個人や団体である。

人間は誰かに利用されるため生まれてくるものではない、という言葉には、一般の人の多くが賛同すると思う。
なのに「血を残す」ことへの価値についてだけは、盲目的に信奉する者が多いような気がする。
こんなに、利用されてるっぽいあやしげなモノなのに。
本能といってしまえばそれまでだ。
しかし、ならばなぜそれに美辞麗句が必要なのだろう?
人間としての価値だの、ありかただの、賛同しないものを追いつめるような、きらきらしい言葉が必要なのだろう?
それは、そんな詭弁を必要とするほどの、脆弱なシロモノなのではないか?
そんなものに操られていて、人間は大丈夫なのか?
それとも、そんなものにしがみつかねば意味を見出せないほど、人間自体が脆弱なのだろうか??
としたら、そこまでして存在を護らなきゃならない、なのに弱い、人間ってなんなんだろう。何のためにあるのだろう。いる意味があるのだろうか?
逆に、このコトバで今のありかたを守り続けることで、ヒトは進化を止めてはいないだろうか??
わたしにはよくわからない。

別文
まあ人間再生産しなければ一族は滅ぶし社会は成り立たない。
業なのだろうが、それを利用されてるフシも人間にはある。
辛くても、人間たるもの子を残さねばならないと、それだけで生きていざるをえなかった人間がいるのを、そしてそんな彼女らを利用して安閑と生きていた人間もいるのをわたしは知っている。
彼らが生きていなければわたしもいなかったのだが、それとこれとは別問題である。
血を残すことに固執させておけば、人間はすぐは死なない。いくらでも利用できる。
意識的にか無意識的にかそれに基づいて、わたしがかれらより、より愛している相手を、利用した人間が過去にはいる。
その血などのこしてやりたくない、と思うのはおかしいのだろうか?
そもそも、そんなふうにかれらを追い込んだ血そのものに、怒りを抱くのもおかしいのだろうか?
憎しみの対象の、目的を挫く行動を起こしたくなるのは、ヒトとしておかしいことなのだろうか?



2006.07.17 更新が間あいた理由。


一定以上辛く感じることは書けない。
だから数ヵ月なにもかけなかった。

一生書けそうもないこともある。
この間はっきり分かってしまった、未来を見られない理由とか。
診断テストには出ない、出せない奥底にある自分のノゾミ。
…医者に行った方がいいのかもしれない…

いまある日々の平穏さと、これは、別次元のモンダイ。
すべてひたすら、わたしの愚かさの結果。


ただ、これは忘れない方がいいかもしれない。
今ここで、『精神的な葛藤を抱くのは甘えた軟弱のすること、ハングリーに生きていた昔の人間は…』という人々は、昔の人間ではない。
かつ、不用意に敵を作りうる発言ができるほど、余裕のある人生を生きている。



2006.11.17 とても表にはかけないヒトコト。


つらい人間暮らしから逃げてくヒトも世にたくさんいる。
みんなで逃げればかわるのかな?
それが大々的に“正しい”方法と認められる日は、人が人である以上、絶対にこないけれど。

ただ、自分の好きなものを傷つけた相手には、それをするより先にどっか別の世界にいってほしかったと心底思うけれど、やってしまった以上は500年でも生き続けろと思う。
死んで楽になんかならせてやりたくない。
セキニンのとり方はそんなんじゃないだろう。
セキニンてのは生きているものが生命をつなげるためにとられるものではないのか?
後悔しろ、と思う。
自分の身で後悔しろ、と思う。
すでにまったき私情私怨の域でしかないが。
自分がはたで勝手につらく思った、それの責任を転嫁した怒りでしかないが。

自分に対しても思っている。
他の生命の犠牲を出し続けてつなぐほどの生命かと。
大した力のない自分なら、すぐ消えたほうがよほど損害は少ないのではないかと。
なのに生きている理由はと問われれば、今はとらなきゃならない責任があるから。つなげなきゃならない命があるからとわたしはこたえる。
たぶん“かれら”も全く同じことを言うのだけれど。


2007.04.03 ウラミのチカラ。


うらみ、怒り、恐怖…いわゆる負の感情。
それらを持ち続けるのは一般的によろしくないとされている。
それらは、ココロに抱いているだけで、自らを傷つけるから、と。
合理化、ユーフェミズム、試練論…何でも使って、とっとと片付けちまいましょう、と。

その一方で、理不尽や不正に対しては正しくうらみ、呪い、鉄槌を下せという考え方も少ないながら見かける。

イメージの問題は脇に置くとすると、どちらがより、今と未来の事態をよく出来るのだろう?

学問や技術の発展には、たとえば医学なら死への恐怖と嫌悪、が原動力となっていることは間違いない。
負の感情は確かにヒトを、自分を傷つける。しかし、生きている以上常に発生し逃れ切れないものでもあり、そうである以上、原動力にしなければ何にもならない。
“ポジティブシンキング”で事態をほうっておき、出来る努力をしなかったことで、被害が広がる事例は現実にもあとをたたないのだ。
どうしても助からない、どうしても歯が立たない、ていうかもうかかわりたくない自分が壊れる…それらのケース以外では、安易に安らぎに逃げ込むことはいかがなものかとも思う。

安らぎや希望に逃げ込み、立ち向かうべきを捨て置く手段として、スピリチュアリズムまわりやそのなかで唱えられる自由論、試練論が“悪用”されているのではないかという懸念はつねにぬぐえない。
自分の状況はすべて無意識に自分の望んだもの、自分で自由に変えられる、というのは無意識というみずからで明確に確かめえぬものを利用した詭弁のように思われる。
「無意識」といってしまえば反論は出来ない。なんたって確かめようもないのだから。
まだなにもしらない赤子が、ロッカーの中で泣きながらその事態を望んでいるなど、常識から言えば寒い冗談だ。
そしてそうした子達がでる事態を「これはかれらの試練だから」と捨て置くのが正しいとは、人間の視点からは断じていえない。

それが極論だとしても…
たとえば普通の東京の小学生にとっては、親にぶたれてばかりいるからと即刻家出してすべてを自らで切り開くのは非常識的な選択だ(むしろ一両日中に補導されるのが関の山だろう)
たしかにヒトには選択の自由がある。しかし現実に選ぶことの出来る事態は、自らの望むまま瞬間に自在に組みかえられるものではない。
事態というものがある程度「セット定食」になっており、その料金が大きく違い、ヒトそれぞれに手持ちも違う、よって好きでその事態にとどまっているわけではないということを故意に無視してテンカイする「自由論」「試練論」は、ただ場を盛り上げるための詭弁にしかわたしには思われない。

盛り上がることは楽しい、大切だ。しかし、そのフンイキのなかで言われた言葉を鵜呑みにしてはいけない。
万一、語り手に悪意があれば、そこでだまされる。
その実例はいやになるほどいっぱいあるし。
ヒトのココロに安らぎと希望をもたらすため、慈愛を持って唱えられるスピリチュアリズムを、そういうモノと同列に並べるつもりはさらさらないが…
かつて歴史上の一神教が、それを利用して犯した愚行の二の舞だけは(たとえどんな存在にであれ)ふんでほしくない。
そのためにも、おなじく神をいただくスピリチュアリズムが安易に誤用・乱用される事態にはなってほしくはない。
スピリチュアリズムは、「安らぎ」は、「希望」は、けして安易に逃げ込むためのものであってはならない。
そのためにも。
安らぎなど、正の(聖なる)想いを得るための方法だけでなく…
前進するための「ウラミのチカラ」を、正しく扱えるようにするすべが、明日を想うわたしたちには必要なのではないか。そうも同時に思っている。

スピリチュアリズムブームの去った後に、その波は来るのだろうか?
ワタシがその波を起こすためのセット料金は、見積もるととんでもなく差額がある。
ワタシの現在の手持ち額と。